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カテゴリ:若かったころ( 10 )


2012年 08月 14日

私が生まれた日

カテゴリを「若かったころ」としましたが、若いなんてもんじゃない、生まれた日のことです。

先日見つけたあるものを、どうブログで表現しようかとウロウロしていた一昨日のこと、
会社の女子から、また別のあるもの、をプレゼントしてもらいました。


私が生まれたのは島根県出雲市。
父が亡くなる少し前に実家は処分されました。
その直前、上から2番目の姉が実家の処分を任されて、残されていたもの全てを片付けてくれたのです。
そのとき、5人の子供たちの
通信簿
卒業証書
表彰状、
小さい頃からの写真のすべて
を5人それぞれに分けて、それぞれに送ってきてくれたのです、数年前に。

その荷物の中に、先日見つけたこれが入っていました。
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母子手帳、私自身のものです。

1950年、6月5日午前9時45分
なんと4100g
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8月15日が終戦記念日のあの戦争が終わって5年後に生まれました。
母が34歳のときの5人目の子供です。
戦後の食料難もなんのその、お腹の中で栄養を独り占めしていたのでしょうか。
生まれたのは自宅の一室。産婆さんに取り上げられたそうです。
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配給の記事 とあります。
脱脂綿とかガーゼは配給。砂糖も、母乳砂糖購入券て、粉ミルクのことでしょうか?

送られてきた荷物を開けた時にあったと思うのですが、
つい先日、改めて見つけて驚いたものです。

よくぞ保管していてくれました。
母のことを思って少し心がほぐれます。


ものごとのタイミングって、不思議なことがあります。

そんな中、会社の後輩がプレゼントがあります、と持ってきてくれたのが一枚のB4の紙。
昭和25年6月5日の毎日新聞です。
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その日の一面の記事は、前日に行われた参議院の選挙結果についてです。
投票率は7割を突破とあります。
みんな政治にもっと関心を持っていたころです。

首相は吉田茂。
皇居前広場であった暴動が、裏に共産党ありとして、国民に警告を発した、そうです。
そして共産党の動きを規制するため非合法化の法案を出すことにしたと。
ふーん。
戦争で、庶民は嫌というほど国策に疑問を持っていただろうに、5年も経って平和な世の中に向かっていたのですね。


「恋愛教室」・・・・映画の宣伝でしょうか。甘い恋・桃色の夢
とあるので、まさかもうピンク映画? と思いきや、
松竹映画 出演: 桂木洋子・ 佐田啓二
映画のタイトルとスタッフ・キャストの一部はネットに記録はありますが、今となってはもうどんな映画だったかも分かりません。
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左の中程にある記事、「ラジオと蛔虫」?
私が小学校のころ、子供たちの身体の中には蛔虫がいましたね。
「まくり」という海藻から作られた飲み物、これがまずいのなんのって。
記事では、山梨県の中学生になんとかという山ノ内製薬の薬を飲ませたら、卵の死んだ確率が89%で、海藻のを遥かに抜いているということをラジオで言ってた、みたいなことが書いてあります。


山一證券は昇り龍。
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1997年の衝撃的な自主廃業を迎えるまで、四大証券の一つとして存在していました。

常々思っていました。
昭和の一番いい頃を生きてきたな、って。

東京だって、今みたいにすべてコンクリートやセメントで地面が覆われていなくて息ができました。
家電製品は次から次へと開発されて、家事がどんどん楽になっていきました。

いろんなことがピークになって、飽和状態になったものを解決する方にも向かっています。
地下鉄はどんどん線を張り巡らして、どこに行くにも便利。
光化学スモッグとか、交通渋滞とかも、いろんな技術を駆使して緩和されています。


上昇した放物線がゆっくり下降するように、でもその着地は元の場所ではないように、
これからの暮らし、これからの日本、これからの地球のこと、考えねば。


母子手帳、私の原点です。

by yumiyane | 2012-08-14 23:37 | 若かったころ | Trackback | Comments(22)
2012年 07月 18日

おまわりさんの話

いつごろからだったでしょうか、実家の前に交番が出来ました。
小さい頃の写真に、お巡りさんが写っているものがあるから、相当前だと思われます。

その交番には殆どいつも誰かが駐在していて、おかげでうちは泥棒に入られたことがなかったです。
交番の前にはブランコがあったり、滑り台があったので、交番も遊び場のひとつになっていました。

入口を入ると少し高めのカウンターがあって、お巡りさんはその向こうに座っています。
少し湿った金属の匂いと、トイレの匂いが混じって、自分の家にはない空気がこもっていました。

お巡りさんは、おじさんの他に若い人が入れ替わって当番にあたっていました。

大学に入る為上京したころ、母が軽い認知性になっていて、それが心配だったので休みになると帰郷しました。
美術部の合宿以外は、殆どの休みを出雲で過ごしたのです。

大学三年のころ、前の交番に京都S大学を卒業して、警察官になったばかりの若いお巡りさんが来ました。
彼は、白バイに乗りたくて警察官になったんだ、と話してくれました。

彼が当直で、私が暇な夜は遅くまで話し込むほど仲良しになりました。

夏休みのある日、彼が非番のとき海水浴に行くことになりました。
車で家に迎えに来てくれた彼に、父は玄関で仁王立ちになって睨みつけ、気を付けてくるように言い渡しました。

出雲の海岸は、多岐から小田というところにかけて美しい砂浜が続いています。
海の家など殆どないところ。車を停めて泳ぎました。
そうこうしているうちに突然の雨。

出雲は八雲たつ ところ、いつも突然雨が降るのです。

二人とも水着を着ていたのだから、多少の雨なんて平気のはず。
でも何故か車に避難しました。よほどの大雨が降って来たのかな。

助手席に座った、水着の若い女学生を隣にしても、その警察官の彼は指一本触れませんでした。

雨が上がって、もうひと泳ぎしたのかどうか、覚えていません。
とにかく、父が申し渡したように、気を付けて運転をして私を送り届けてくれました。

大学を卒業した翌年に、同窓生と結婚した私は、母が心配だったのでよく実家に帰っていたある日、
玄関にスピーカーで呼ぶ声がします。

私が帰っているのをどうして知ったのか、そこには白バイに乗った彼がいたのです。

嬉しそうでしたね。白バイに乗りたかったんだものね。走りはしませんでしたが、私もその白バイに乗せてもらいました。


私の中のおまわりさんは、小さい頃から仲良しでいつも遊んでもらっていた、あの人もこの人もみんないい人でした。
だから、東京に出てきたばかりのころ、一方通行を逆に走ったと注意されたときも、
女子医大に子どもを透析に連れて行く時、右折車線に並ばなかったと注意を受けて思わず泣き出した時も、
いつもやさしく悟されて、守られているような気持ちになったものです。


年月が経って、こちらがうんと年上になったこのごろ、
首相官邸前とか、
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代々木公園あたりとかで
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警戒に当たる彼らを見ると
まだまだ人生青いなって、私たちをどうこうしようなんて100年早い、なんて思ってしまいます。


思い出の中のお巡りさんは、あまりに優しかったからね。

by yumiyane | 2012-07-18 14:21 | 若かったころ | Trackback | Comments(16)
2011年 08月 28日

マクドナルド上陸

大学3年生になった秋、
新宿に、マクドナルド なる、ハンバーガーショップがオープンしたらしい、
という情報で、行ってみようということになりました。

学校は小田急沿線、当時私は練馬区小竹町に住んでいたでしょうか。
東京に出たころは、東高円寺に住んでいて、新宿は経由地として一番訪れた都心でした。

マクドナルド1号店は、銀座三越に出来たようですが、その後相次いで、新宿の三越と二幸(にこう)今のアルタの1階に、ほんとにカウンターだけの小さなお店が出来ました。


ゼミが同じ友達と、部活が同じ友達と三人で、三越の軒先に作られたマクドナルドで、まずはチーズバーガーを食べました。

すると、少しやせ気味の、30代前半のカメラを持った長髪の男性が声をかけてきました。

女性自身のカメラマンですが、マクドナルドが日本に上陸して、若い女性に人気が出て来た
という記事のため、写真を撮らせてもらえませんか?


私たちはすでにチーズバーガーを食べてしまっていました。
すると、ボクが払いますので、ということで、三越で一度
場所を移動して、二幸店でもう一度、撮影のためにチーズバーガーを食べました。

味はだから、あまり覚えていません。
こんなもんか、と思ったのか、それとも一度にいくつも食べて、もうお腹いっぱいでおいしいと思わなくなったのか、それからしばらく買った覚えがありません。
今でも1年に一度買うか買わないか。


何日かして、先の男性から電話がありました。
ご協力いただいたので、発行した雑誌と、写真をお渡ししたい、ということでした。

何故か私が行きました。
電話番号を伝えたのが私だけだったのか、覚えていません。
どこかの喫茶店で、写真と記事の載っている雑誌を受け取りました。
それがこの写真です。

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採用されたのは一番下の写真でした。

先日、色々物を整理している時に出てきたのです。


私はそれしか覚えていないけど、他の二人は違うことも覚えているかもしれない。
今度聞いてみましょう。

3個食べたのかな~。
電話番号教えたの私だけだった?
彼ちょっとがっかりしたように見えたのを思い出したのよね~。

by yumiyane | 2011-08-28 00:43 | 若かったころ | Trackback | Comments(34)
2011年 01月 28日

有楽町で逢いましょう

何十年ぶりかで会うことになった、大学時代の部活の新年会。
母校の同窓会が運営しているクラブで会うことになりました。

有楽町にあるそのあたりの地図をGoogleでプリントし、最寄駅を確認。
番地もメモして、出かけました。ひとつ忘れたのは、地下からの出口の番号。

とりあえず地上に出ましょう!と、数奇屋橋付近。

マリオンを背にして、
とまでは良かったのだけれど、ここだと確信した方角にそのビルが無かった!
それが間違いの始まり。
帝国ホテルに来てしまった頃から、全く地図が理解できなくなってしまいました。

番地と簡単な地図があればどんなところでも一発で行きつく、と自負していた私には、
泰明小学校と高速道路の位置関係を確かめながら、どんどん空白になっていきます。
すでに40分遅刻しているのに~、
観念して、幹事さんに電話して、誘導してもらおうと思いました。

道案内の落とし穴
高速道路を右に見て歩いて来て下さい、と誘導されました、
帝国ホテルにいる、と言ったからね。
ところがそのとき、電話しながら私は高速をくぐってホテルと反対側に歩いたのです。
高速道路を右に見て歩いています、
と言いながら、実は反対の新橋方面に向かっていたのです。

迷ったときは原点に戻る
間違いに気付いた私は、地下からの出口からやり直し
ニュートーキョーの目印を頼りに、やっとたどり着くことができました。
寒空の下、建物の角に後輩が待っています。
すでに会が始まって1時間以上が過ぎていました。

自称『地図の読める女』を返上せざるを得ません。
数寄屋橋あたり、変わってないようで、目印が変わってしまっています、これいい訳。

さて さて

by yumiyane | 2011-01-28 15:34 | 若かったころ | Trackback | Comments(18)
2010年 03月 23日

初出勤の日

私の就職活動は、卒業式を終えてからでした。
当時は、親の会社を継ぐ人以外、一年前に就職先が決まっていることなんてありえなかったのです。
きっと働くんだろうな、と思いつ、卒業するまで何も就活していなかった私は、姉の紹介で、ある会社に面接に行きました。
その場でOKをいただき、一週間後4月1日に出勤と指示されましたが、それは会社の社員旅行だったのです。
その年の3月3日に設立した会社、4月1日から親睦旅行が計画されていたからです。

何しろ初出勤ですから、知り合いは誰もいません。ただ、何人かの人は姉をご存じでしたから、
Minaの妹ね、と可愛がっていただきました。
夜の宴会の席で、体育会系の男性につかまって飲み比べが始まりました。
ビールのコップと日本酒の杯が順番に並んで、じゃんけんで負けたほうが飲むのです。
私は意外とそのときはじゃんけんに強く、たまに負けても杯の方でしたから、結果としてそれほど飲まなくて済みました。結局、彼がギブアップ、私の勝ちです。
このことは、しばらく語り継がれ、伝え聞いた姉に叱られました。

1泊二日の、真鶴の旅館での社員旅行の帰りは、それぞれの車に分乗でした。
私が乗せていただいたのは、帰りに仕事を兼ねて鎌倉に寄る方の車でした。
そのとき、ご一緒だった方が、石井さんです。
彼は当時、某テレビ局の美術担当の方、どうしてその旅行にいらしていたのかは不明です。
ただ、カメラを持って、始終写真を撮っていらしたのが記憶に残っています。

鎌倉に寄ったのは、あるカメラマンの方の自宅にお邪魔するため。私も上がってお茶をいただきました。
奥さまはとっても綺麗な方。
そのとき、カメラマンは美しい人を娶る、という方程式を教えていただきました。
ファインダー越しに見つめられると、レンズがカメラマンの目と重なって、常に見つめられているという錯覚を持つから女性が参ってしまうのだそうです。
帰りにお宅の前で、真野響子さんとすれ違いました。美しい人でした。

私の記憶の中では、石井さんもカメラマン、と思っていましたが、
その後、何年かして独立なさり、会社に何度かお見えになったころ、画家になられたことが分かりました。


今日、石井さんからいただいた絵が届きました。
先日、私のボスが、彼の作品を1点もらえることになって、そのやりとりをしていたところ、私もいただけることになったのです。


届いた絵を見て、とても幸せな気持ちになりました。
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私が選んだのは、フィンランドの夏の絵です。
なんだか、思い出の中にある、故郷の景色に通じるものがあって、すごく懐かしい気がしました。


石井さんは、北欧を拠点にして、パステルと版画を組み合わせた絵で、いろいろなところで個展やグループ展で活躍していらっしゃいます。

額装もすごく絵にあっていて、今 どこに飾ろうか思案中です。
初出勤の帰り、あの車に乗った幸運です。

by yumiyane | 2010-03-23 23:48 | 若かったころ | Trackback | Comments(8)
2010年 02月 24日

記憶

雪の国に住む友達は、中学1年からの幼馴染。
堀之内から湯沢に向かう車の中で、中学1年のクリスマス会の話になりました。

耳鼻科の開業医の次男に同級生がいて、そのお母さんにシチューの作り方を教わりました。
あれはクリームシチューだった、という友と
あれはビーフシチューだった、という私。

彼女はそれからたびたびクリームシチューを作ったから、絶対クリームだったわよ。

私は、お肉に塩・胡椒をしたあと、小麦粉を入れたビニール袋の中で振って粉をまぶすのを教えてもらった記憶があって、だからビーフシチューでしょ、と譲りません。

一緒にいた、もう一人の幼馴染に電話で聞いてみよう!
ということになって、広島県は福山市で薬局を営んでいる友に電話しました。

あんまり覚えてないけど、そう言われてみれば白かったような気がする!

と言われ、私はだんだん弱気になってきました。

確か、写真があったはずだから、探してあとで送るね、と言われ、夜東京に戻って、自宅のメールをチェックしたら、写真が届いていました。
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やっぱり白い。

じゃ、私はどこでビニール袋に小麦粉を入れてまぶすやり方を教わったんだろう???

中学一年の私にもシチューを作るのは画期的なことで、あのお宅でお母さんからお料理を教わった、
というカルチャーショックは相当なものだったので、
後にどこかでそのやり方を覚えたときに、その鮮明な記憶と結びついてしまったのでしょうか。

記憶なんてあやふやなもので、
そんなあやふやなものを、経験と覚えてしまって、
当たり前のように語っていることがもしかしたらもっとあるかもしれない。
そう思うとなんていい加減な人生なんでしょう。
でも、それもこれもで今の私がいるんだからしょうがない、
これも人生、
って誰かのセリフですか。

by yumiyane | 2010-02-24 00:28 | 若かったころ | Trackback | Comments(8)
2010年 01月 27日

OatMeal

皆さんは、朝ごはんに 何を召し上がるのでしょう。
先日、女子栄養大学の先生が、最近の子供たちのご飯の状況を調査していらっしゃいました。

私の子供のころの朝ごはんは、たいがいトーストと紅茶だったような気がします。
今から50年あまり前のことだし、島根の田舎のことだから、それはおしゃれな朝食だったと思われます。
そのころは大家族でしたから、その食パンを母がどこから調達してきたのか、まったく覚えていません。
4人姉妹はみな髪が長かったので、朝食を食べながら一人づつ母に髪を結ってもらいました。

朝は農家の人が、採れたての野菜をリヤカーに積んで売りに来ました。
私はキャベツの千切りが大好きで、それだけで大きくなったような気がするくらいです。

バターを塗ったトーストと、ミルクティにキャベツの千切り。
みんなでワイワイしながら食べたことでしょう。

小学生を対象にした女子栄養大学の先生の調査では、朝食だけでなく、夕食まで一人で済ませる子供が増えているのだそうです。何%だか忘れましたが、半分近くいたようです。

口に物を入れてしゃべるのはやめなさい! と叱られても、みんなで食べるのは楽しい食卓です。

いろんな事情で、親と一緒に食べれない子がいるのは、昔も今も同じでしょうが、先生の調査で、そのとき母親は何をしていましたか?という問いに
テレビを見ていました
寝ていました
ほかの部屋にいました
などなど。
食育が見直されるこのごろ、何かいたたまれないアンケート調査の結果でした。

さて、
焼き立ての食パンがこのごろの朝食に登場していますが、
アメリカから戻ってきて毎日のように食べているのがこれ。
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実はアメリカに行く前に見つけて買ってあったのです。

オートミールを初めて食べたのは、新婚旅行で行った軽井沢のホテルの朝食でした。
万平ホテルの食堂は、とってもレトロでサービスも申し分ありません。
アメリカの映画で観た、これがあのオートミール、と思って食べましたが、おいしい!ものでした。

それからしばらくは目にすることも、口にすることもありませんでしたが、数年前に都内のホテルの朝食で見つけてルームサービスでいただきました。

このたび、アメリカのサンディのおうちでいただいた朝食がオートミール。
「作り方はとっても簡単なのよ」 と サンディに教わりました。

大匙4杯くらいを器に入れて、倍の分量のお水を入れます。
電子レンジで1分半。 
取り出して、牛乳を入れながらかき回します。そこに塩を入れて、はいできあがり。
サンディは甘くして、レーズンや干しアンズをきざんで入れていましたが、私は絶対塩派です。
アメリカは低脂肪牛乳しかありませんから、私も帰ってきてからはずっと低脂肪です。
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ミネラルも多く含んでいるし、食物繊維も豊富なオートミール。
桜新町のピーコックには上の写真のものしかありませんでしたが、KINOKUNIYAには、さすがに4種類くらいありました。これから全部の種類を試してみるつもりです。

ホットケーキがダマになったみたいなもんだな、と息子は言いましたが。

by yumiyane | 2010-01-27 00:50 | 若かったころ | Trackback | Comments(4)
2008年 05月 30日

100IDEES サン・イデー

サンケイ出版から出ていた手作りが好きな人のための雑誌です。
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とっくに廃刊になっていて、手もとに3冊しか残っていませんが、私の宝物です。

昭和52年発行の本たちですが、中味は今見てもちっとも遜色がありません。むしろ素敵!
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キルティングに自分で絵を描いて着る、というものですが、色がきれい。

このデザインは永遠に不滅です。
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また、これなんかリバティープリントで作ったらどうかしらー、って思ってます。
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フランスの手作り雑誌が元になっていて、編み物、洋裁、キルト、刺繍、織物などなど、ときには木彫り職人を訪ねて、など、フランスの香りプンプンです。

今こんな雑誌ないよなーと思うと、表紙がとれてぼろぼろになっても大切な“保存版”です。
料理やお菓子作りの頁もあって、紙の古さが無ければ、30年以上も前の本とは誰も思わない。
しかし、
広告のページは 来ます。
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若ーい 八千草薫さんです。

by yumiyane | 2008-05-30 13:13 | 若かったころ | Trackback | Comments(2)
2008年 05月 29日

letter friends

小さかった頃は、メールも携帯もなくて、友達とのコミュニケーションは、手紙か電話か直接話す、でした。
小学校のころ、「リボン」という少女雑誌を購読していて、その頁の欄外に、“ペンフレンド求む”という内容の記事があって、どこそこの誰それさんの住所が書いてありました。
今考えると恐ろしい個人情報の公開です。

何に惹かれたのか覚えていませんが、和歌山県のカワベアツコさん、という方と文通を始めました。
これは結構続きました。小学5年から2年くらいは続けたような気がします。
和歌山県は、大阪の隣ですから、島根県出雲市よりは都会のような憧れも少しあったかもしれません。

中学のとき、同じクラスだったミヤザコミツコさんが、警察官だったお父さんの仕事の転勤で、隠岐島に転校していきました。
住所を交換して、しばらくは文通が続きました。

高校のとき、所属していた吹奏楽部は頑張っていたので、県大会、中国地方大会に出場しました。同じ島根県の、今は石見銀山で有名になったあたりに川本高校という学校があって、そこの吹奏楽部も頑張っていて、いつも一緒に中国地方大会に出ていました。その学校の同じ楽器を吹いていた、これが名前を逸してしまったのですが、女性と文通をしばらくしました。私はアルトサキソフォンを吹いていましたが、彼女も確かそうだったと思います。

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もう何十年も前のことですが、みんな今どうしてるかなー、って思い出します。
そして、文通が途絶えたのは、私が返事を書かなかったからかもしれない、そうだったらごめんなさいね。でもそれぞれに私のいい思い出になっているんですよ、ということを伝えたかったわけです。

by yumiyane | 2008-05-29 10:54 | 若かったころ | Trackback | Comments(6)
2008年 05月 18日

私たちの若かった頃 

海外旅行がそれほど普通のことではなかったあのころ、それでも大学では短期留学をする人が幾人かいました。
羽田は国際空港で、海外はここから出発です。
20歳のころ、親しかった学友が夏休みにイギリスに留学するというので、花束を持って見送りに行きました。お母様も長野から上京なさったようです。
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たった2ヶ月の海外留学にもこうしてみんなで見送ったのです。

このころ姉がイタリアのペルージャというところに住んでいました。
父に“私もイタリアに行ってみたい”と何度かお願いして、なんとか許可がおりそうだったけれど、70年代は航空機事故が続いていた上に、1972年にはテルアビブ空港乱射事件のようなことがあって、日本赤軍が大嫌いだった父の答えはNOでした。

やがて社会人になって就職したところはテレビの番組制作会社で、あのころでも海外ロケというものが頻繁に行われていました。
アメリカへの往復は、Pan Amの01便と02便しか飛んでいませんでした。ヨーロッパに行くのもそれでした。
搭乗者名簿というのがあって、離陸していれば電話で、その人が乗っているかどうか聞くことができました。
会社のロケ隊が乗ったことを確認して、羽田空港まで迎えに行くのです。
1$は360円に固定されていました。
白地にブルーのパンナムのロゴのついたバッグをお土産にもらって、ちょっと得意だったこともありました。

就職して1年も経たないうちに結婚して、子供が出来て、
私の海外旅行はずっとお預けになったのです。

by yumiyane | 2008-05-18 21:56 | 若かったころ | Trackback | Comments(8)