にっと&かふぇ

knitcafe.exblog.jp
ブログトップ | ログイン
2010年 04月 09日

1992年

この年は、みなさんにとってどんな年だったか覚えていらっしゃいますか?

1992年10月、
マイケルは、ルーマニアのブカレストにいました。

編み物でお友達になったK子さんが、先日「This is it もいいけど、マイケルはこれよ!」 と、
DVDを貸してくださいました。
MICHAEL JACKSON LIVE IN BUCHAREST: THE DANGEROUS TOUR
1992年_d0117481_0271773.jpg

1992年といえば、その3年前1989年、ベルリンの壁が崩壊し、一気に東が西になだれ込み、自由の嵐が東ヨーロッパに吹き荒れた、その3年後。
1989年のルーマニアでは当時の大統領チャウセスクが妻とともに、学校の教室で処刑された映像が世界に配信されました。
その3年後のルーマニア。その画面に映る大観衆とその若者たち。
彼らは、英語でマイケルと一緒に歌いだします。
1992年_d0117481_031593.jpg

今と違って、インターネットも携帯電話も無かった時代。
みんなはどうやってマイケルの歌に出会ったのでしょうか。
1992年_d0117481_033952.jpg


このデンジャラスツアーは、世界で350万人を動員した、という記録的なコンサートツアーだったようです。
しかも、このコンサートは全米でCATVで放映され、史上最高の視聴率(%は不明)を記録したのだと。

確かに、確かに凄い!絶好調のダンスパフォーマンス。ヒット曲も次々に、驚きは、そのころから彼は「ヒール・ザ・ワールド」や「マン・イン・ザ・ミラー」で環境問題を歌っていました。

彼のこのころの活動について、私はちっとも知っていなかったのは何故?
世界の350万人を動員するこのツアーのことをちっとも知らなかったのは何故なんだろう。

私はその頃何をしていたんだろう?

そうか、と
うなづけました。

1992年10月、ちょうどマイケルがルーマニアを訪れるころ、
私の勤めていた会社は、39億円の負債を抱えて和議を出しました。
そして翌年の1月に倒産したのです。
私のいた部署は、総勢67名、1992年10月1日付で今の会社にエスケープしました。
そして、翌年4月、出資者を見つけて表参道に引っ越したのです。

そのころのことを思い出しても、よく頑張った、としか言いようがありません。
なんとかみんなで生き残るため、毎日ボスは出資者を探していろんな人に会いました。
そのための資料づくりと総務・経理の仕事が全部回ってきました。
息子は高校生になったころ。
一度家に帰ってまた会社に来て仕事をしたことも何度かありました。

1992年のウィキペディアを見ると、へえーって思うことばかり。
世の中のことを見る余裕が全然なかったことが分かります。


デンジャラスツアーのマイケルは、表現の仕様がないくらい素晴らしい!けれど、
今の私には「This is it」のマイケルのほうがなんだか嬉しいです。




1992年、マイケルがルーマニアの孤児院を訪れたときの映像です。



by yumiyane | 2010-04-09 00:36 | 身の回りのこと(around me) | Trackback | Comments(6)
Commented by mai-obachan at 2010-04-09 08:00
私はこの年初めてスペインを訪れました。

舞台での激しいダンスとパワーのある歌唱力で魅了するマイケル・ジャクソンと違い、舞台を降りると声もか細く繊細で、まったくの別人になりますよね。
Commented by shinn-lily at 2010-04-09 15:16
1992年、子供の中学お受験か入学した頃。
これから、難しい時期に突入でしたから、夢中でした、生活に。

私もマイケルの他のDVD見ましたが、 THIS IS IT! の方が好きかな。絶頂期ではないし、いろいろと経験し、苦労してきた人の味というものがあるような気がしました。
Commented by yumiyane at 2010-04-10 02:01
:mai-obachanさん、こんにちは。
ああ、そのころでしたか。そのとき一目惚れだったのですか。人生におけるポイントの年でしたね。

ちょっとはにかんだ笑顔が可愛いです。
This is it のリハーサル風景で分かったのですが、彼は声を大切にしていたようなので、普段はできるだけ喉にやさしい声を出していたのだと思います。
それだけでなく、ほんとうにやさしい人柄がその声と表情に出ています。
Commented by yumiyane at 2010-04-10 02:11
:shinn-lilyさん、Aちゃんが中学に入ったころですね。
まだたくさん母親していたのですね。大変だっただろうけど、過ぎてみればよくやったと思えるでしょう?

マイケルを取り巻く有象無象の人の中で自分を見失わないで生きて行くのは、大変なことだったと思われます。彼が声を荒らげるのを聞いたことがありません。それどころか、くったくのない笑顔と子どもたちを見るやさしい眼差しです。
彼は自分の人生をどう思っていたのか聞いてみたいですね。
Commented by kanafr at 2010-04-10 08:09
18年前ですね。
私もその頃必死だった事を思い出しました。
アルツハイマーの母をフランスに引き取り一緒に生活し始めたのはいいのですが、私の体調もドンドン悪くなって結局、自分は手術、母は日本の病院に入れる事になってしまいました。
手術後一人こちらに戻り、義姉の「貧乏くじを弟に押し付けた厄介な嫁」の批判をこれ以上受けないように、母の入院費を自分一人で作る為、徹夜当たり前で必死で仕事をしました。
今でも仕事をさせてくださったYさんにはすごく感謝しています。
若かったからできた事ですね。

マイケルの優しさが心に響きますね。
あれだけの愛に溢れた眼差しや優しい笑顔は、演技ではできません。
演技だったら子どもも見抜いちゃいますもの。
想像もできないような苦しさを抱えていたと思いますが、あんなに人に優しくできる人だったから、神様は自分の手元に引き寄せたくなったのかもしれません。
Commented by yumiyane at 2010-04-11 11:43 x
:kanafrさん、こんにちは。
いろいろ大変でしたね。一人娘は全部しょってしまいますからね。
私みたいに5人いると、そういう負担も等分されます。
お母様はきっと心のどこかでご理解していらしたと思いますよ。私の母もアルツハイマーでしたが、脳のどこかで分かっていて欲しいと思っていました。
貧乏くじだなんて、kanaさんのブログから、どんなにご主人にとって福の神であったかが伝わってきます。とんでもない。

マイケルのこと、Yutubeでたくさんの映像が投稿されていますね。
テレビで伝わってこなかった映像を興味深く観ています。
お疲れさま、と引き取られたのでしょうか。


<< 目白探索      ご縁 >>